supermonyari.

すーぱーもにゃり。

日本でLGBTを語る、ということ。

 できれば毎日書きたいと思っていたが、さっそく1日ぼうずの体たらく。英語で書く分はやっぱり止めます(笑)。

 

 オーストラリア現地の人たちに混じって、高齢者介護の講習を受けています。英語のハードルが高く、ひいこら言いながらも内容が面白いので頑張れます。講習内容が2日以上連続することがないので、どの講習からでも始められる代わりに、1回講習を逃すとその単位を取り戻すのに時間がかかりそうです。毎回しっかり受けないと。

 

 その2回の講習の中で気になったのが、どちらでもLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)に“すごく”触れていることです。「これからはゲイ専門の介護施設ができるだろう」という話や、あるゲイカップルの痴呆症に関するドキュメンタリー動画を見せるなど、「ちょっとやり過ぎじゃない?!」とこっちが思ってしまうくらいでした。けどもちろん、おいら自身はとても勉強になるし、自分の今後を含めとても考えさせられています。

 

 そんな中、ジャーナリストの北丸雄二さん(@quitamarco)のツイートが炎上しているのを見ました。武藤議員の買春問題について触れ「隠れホモ」という言葉を使って日本でのLGBTのあり方を「エンカレッジ(encourage:勇気付ける、励ます)」しようとしましたが、それが多方から「LGBTのあり方を決め付け過ぎている」などと批判を受けています。

 まとめサイトでその批判を見ましたが、感じるのは「日本でのLGBTの受け入れは、米国やオーストラリアとは同じになれないなぁ」ということです。

 

 おいら自身は、当地オーストラリアでは、基本的に自分のセクシュアリティ(ゲイ)を基本オープンにしています。面白いのは日本人と、日本人以外のオーストラリア現地の人の反応の違いです。日本人は「よく分からず反応できない」人が多いように思います。けど現地の人たちの多くは「よく言ってくれた!」と言わんばかりに好意的な反応をしてくれました。これは最初の講義の話のように、普段からLGBTの人たちが周囲にいることを意識した言説が大切にされているからだと思います。それは「自分とは異なるバックグラウンドを持つ人たちと生活している」という、移民国家である事実がそうさせるのかもしれません。

 それに対し日本は「みんなと同じ」であることがとても大切にされます。その裏返しとして「みんなと同じ」ではない人に対しての対処がとても良くないことが多い。日本にいた時に知人にカミングアウトしたら「いい女性に出会っていないから」「自分をそんなに決め付けないで(!)とりあえず女性とデートでもしてみたら?」と言われたことがあります。そんなおいらは、日本では基本クローゼットです。

 

 北丸さんは米国に在住されており、現地のLGBT事情にとても詳しい。周辺の人々もおそらくLGBTに関して意識の高い方々だろうと思われます。米国は2015年6月に同性婚が合法化されたこともあり、個人の好悪を問わずLGBTが目に見える存在です。

 日本でも最近渋谷区による「同性パートナーシップ条例」が話題ですが、東京在住の友人に聞いても他人事のようでした。先日(2015年5月ごろ)、日本に帰国した際に渋谷区の「男女平等・ダイバーシティセンター・アイリス」に行ってお話を伺いました。担当の方からはとても丁寧な対応をいただきましたが、「当事者の反応はほとんどない」「盛り上がっているのはメディアと一部の人たちばかり」ということでした。現時点で具体的な内容がまだ決まっていないためでは、とも話されていました。

 

 じゃあ、何がLGBTにおける日本と米国やオーストラリアとの違いなのか?米国やオーストラリアは移民国家です。様々なバックグラウンドを持つ人々と一緒に生活していくことが前提で、特に米国には弱者やマイノリティとされる人々が自ら声を上げ、戦って自由を勝ち取ってきたという歴史があります(実はおいら、この辺についてオーストラリアの話はよく知らないんです。ごめんなさい)。

 日本でも「府中青年の家事件」のような事実もありますが、それが日本のLGBTの心の礎をなしているかといったら、そこまでではないと思います。井田真木子さんの「同性愛者たち」を読むまでは、おいらも知りませんでした。そしてこの本に出てくる、いかにも「日本人」という感じがする、のらりくらりとした青年の家側の対応は、日本における大半の人のLGBTに対する意識を代表するかのように曖昧です。

 

 ここまで言うと、おいらもゲイリブ(死語?)っぽいですが、個人的には、そういうのは喉元過ぎた感じで、声を上げて「日本でも同性婚!」ってな風にはなれません(オーストラリア国内では現在紛糾しているみたいです)。そして日本は日本で、たくさんの先人が築いてきたものがあるから今の日本における「LGBTぬるま湯」があると思います。この「ぬるま湯」は「適当にほっとく距離感」です。思想家の東浩紀さん(@hazuma)が以前、東京のゲイパレードにそういうニュアンスの言葉を贈っていたかと思います。おいらは(少なくとも日本人にとって)これはとても大切だと思っています。

 そしてこれは、文字通り死に物狂いいでやらないと自由がなかった米国とは対照的で、つまりものすごい「適応力」なんだとも思います。目には見えにくいですが、上手にお互いあいみつを取りながら(時には誰かが犠牲になりながら)築いてきた「日本のLGBT文化」が、そこにあるのだと思います。もちろんLGBTの概念は日本国産ではなく輸入物ですが、それが米国やオーストラリアと同じでなくてもいい(そしてもちろん、改善の余地もたくさんある)と思います。

 

 今回の北丸さん炎上の件は、その「日本のLGBT文化」の有り様を表しているような気がします。印象はネガティブですが、日本でLGBTを語ることについてとても考えさせられる案件です。